英国ドラマ、Cranford

Cranford(クランフォード)を観た。

BBSのドラマで、全5話。

 

邦題が「女だらけの街」であるこの作品を、私は既に小説で読んで知っていた。
ストーリーはシンプルだが、当時の風俗や、上流階級ほど裕福ではないながらも品を重んじる女たちのプライドや情深さがとても面白かったのを覚えている。

クラシックからモダンまでアレコレとイギリス小説や映画に手を出してきた私の中で、なぜだか「特にお気に入り」のコーナーに鎮座しているのがこの作品。
「イギリス文学といえば」なジェーン・オースティンの「高慢と偏見」も好きだが、小説を読んだ時の感動はそれほどでもなく、映画版で主演を務めるキーラ・ナイトレイによって私の中における本作の魅力がぐぐっと底上げされたという歴史がある。また、シェイクスピアの有名な作品は大体さらったが、演劇特有の(シェイクスピア特有の?)華やかな(大袈裟な)言い回しをいくつか覚えているだけで、ストーリーや登場人物の記憶は薄め。シェイクスピアは読むのではなく観るほうが魅力が伝わりやすかったりするのかもしれないから、また時間ができたときに観てみようと思っている。

じゃあなぜクランフォードはお気に入りなのか。
それは私がイギリス好きなだけでなく、無類の田舎町好きでもあるから。

好きが高じて、数年前のイギリス行旅程の大半を牧羊地帯に充てた。
イギリスなんて遠いし物価は高いし海外旅行なんてそう頻繁に行くものじゃないので、初英国旅行では有名どころを一通り周っとこうかという考えも頭にはあったのだが、やっぱり田舎町を見に行くことにした。どうしてもこの体を憧れの地に持っていきたかった。

ロンドンなどの都会かつ有名観光地で過ごす日を削ることにはなったが、我ながら素晴らしい選択だったと確信しているので、Cranfordから話は逸れてしまうがここに私が見たイギリスの風景を載せておく。

この旅行で買った、現代イギリスに生きる高学歴羊飼いのエッセイも私のお気に入りの一冊になっている。
"The Shepherd's Life"というタイトルのこの作品は、著者であるJames Rebanksがイギリスの羊飼いの家に生まれ、情熱と思考をかけて羊を育てる生活が描かれている。イギリスの、特に著者が暮らす地域の文化に羊がどれだけ重要であるかが、そして羊と共にする生活にリズムを与える美しい季節と厳しい冬の様子がありありと伝わってくる本。私の感性が好奇心に押されて突き出している方面へずっと行った先にこの本の中の人生が広がっていると感じるくらい、私の好みにぴったりの本だった。

 

イギリス旅のお話は尽きないので、また今度じっくり書くことにする。

 

話をCranfordへ戻すと、このドラマは「本を読んで思い浮かべていた古き良き時代のイギリスの姿だ…!」と思わず感嘆を漏らしてしまうほど画が美しい。

毎話、イギリスの牧歌的な背景に、伝統的な衣装を身にまとった人が佇む姿を写した絵画のようなカットが数秒流れる。その度に「眼福…」と心の中で手を合わせ拝んだ。イギリスの映像作品は画に凝っているものが多くて眼に嬉しい。

豊かな自然の中に佇む石造りの家々と色鮮やかな花が咲くお庭がある町並みや、そこを行きかうドレスとフリルたっぷりの帽子で身を飾った人々の姿は、眺めているだけで癒される。ドレスとはいっても、マリーアントワネットやアンナ・カレーニナに出てくるようなような宮廷ドレスではなく、あくまでも田舎のレディーたちが着るものなので、色彩もデザインも素材も派手ではない。でも首元を飾るレース、チェックや花柄の生地、肩や腰がふんわりしたクラシックなデザインだったりが、2023年の私の好みにドストライク。19世紀ブリティッシュレディーたちのファッションもドラマCranfordの見どころだ。

 

そして、この作品がコメディータッチであることも観ていて楽しい理由の一つ。
完全なコメディーではないし、登場人物は皆真面目で、おちゃらけているキャラクターはいない。しかし彼女たちは真面目が故にちょっと滑稽なところがあったり独自のプライドを拗らせている者もありながら、根底には情深さがあるから愛らしい。皆イギリスの名優たちが演じているから(ハリーポッターに出てくるピンクのおばさんも出演されている)、キャラクターのチャーミングさがより際立って見えて面白い。

あと、これは個人的な事情だが、メインキャラクターであるマチルダおばさん(女優さんの名前はJudi Dench)が私の祖母に似ているのもこの作品に愛着をもつ要因になっている。にっこりと笑った顔なんかそっくり。顔のパーツも似ているのだが、一番似ているのは表情の作り方かもしれない。また、ご近所さんや来客者への気遣いが過剰なほどあって、噂好きで、おおらかで…といった性格面も近いところがある。 私の祖母は関西のマチルダおばさんだ。

 

森や田舎町を切り開いて行われた鉄道事業など、当時の社会問題も盛り込まれている本作。でもお堅く考えないで、お家で過ごす休日にソファーに身をもたせながら観るのも良かった。イギリスの美しい文化や風景とレディーたちに心がほぐされて、ホルモンバランスが整った気がする。

映画館で稀に遭遇する不運

先日私は大きな選択ミスをした。

あの日は会社帰りにとある映画の完成試写会に行くつもりだった。
なぜだか私は絶対にその試写会に行く確信があった。それくらいこの作品を楽しみにしていたし、原作が大好きだったから。自分のファン度はピカイチだからいける大丈夫と盲信していた。しかしチケットの抽選に落ち、落ちたことを受け容れられず、頭は真っ白、心はスカスカになった。
そんな過度な絶望が招いた更なる不運についてのお話。

 

試写会の代替として思いついたのが、とあるアニメ映画を鑑賞することだった。

そのアニメと特に縁があるわけではないのだが、とにかく何か別の映画で心の穴を埋めなければダメだった。

この日は曇天、夏休みをとっている人が多いのか朝の電車は空いていた。そんな日に19:30スタートの映画を見に行く人はそう多くはないだろうと踏んだ。
18:00きっかりに仕事を終え、ネットで席の余裕が充分あることを確認し、これから冒険に出るようなすがすがしい気分でオフィスを出た。映画館に向かう道を歩いているときがこの日一番元気でポジティブだった。

 

 

映画館に入ると、私が落ちた試写会のチケットをまるで見せびらかすように持った人々がキャッキャとポスターの写真を撮っていて少々うぜえと思った。妬む心、いけない心。
そもそも落ちた試写会の会場と同じ場所にわざわざ映画を観に行く私が馬鹿なのだ。

 

シアターに入り自席に着くと、左隣4席は青いユニフォームのサッカー少年たち。真隣の少年が水筒を開けるたびに濃いスポーツドリンクの匂いがした。規定以上の量の粉が溶かしてあるに違いない。この少年たちが上映中お喋りすることを少し懸念したが、全くの杞憂だった。きわめて行儀のよい少年たちだった。

しかし私の右隣。この人が見かけによらず大戦犯だった。

見た目は30代くらいの普通の男性。上映前からスマホをいじっていた。ライトが落ちてもまだ手に握ったままで、時々操作するので私の視界の端でスマホ画面の明かりがちらちらしたが、それくらいはまあ気にすることはない。
本編が始まると、長かった予告のストレスで苛々しているのか、彼は頭を椅子に数回ぶつけた。振動がこちらにくる。何が気に入らないのか分からないが気まぐれなため息をつく。「ハア~~」という声が耳の届く。始終もぞもぞと動き、その度に私の視界も揺れる。
私側の肘置きをおもいっきり使われるのも困った。私の席の番号が書いてある方は私が使いたい。
また、話が盛り上がるたびに何かむにょむにょ喋る。興奮すると思ったことが口から出てしまうタイプらしい。逆にストーリーが停滞気味になると、彼は退屈するのかまた頭を椅子にぶつけ、もぞもぞする。

うーん、隣が気になって映画の内容が全然入ってこない。

そして一番衝撃的だったのが、映画のクライマックスで通知音ONの状態でLINEを使い始めたことだ。私は映画に集中したいのに、隣から「ラーイン」「ラーイン」と聞こえてくるわ、スマホ画面の明かりが視界から消えないわで、私のストレス指数は最高レベルに到達した。

 

様々なフェスに落ち、お笑いライブに落ち、映画の試写会にも落ちたこの夏、神は私に変な隣人を与えたもうた。

この日は仕事が終わったら余計なことをせずに真直ぐ帰ったらよかったのかもしれない。ちくしょう。

 

ほかにも1分おきに鼻をすする人(鼻の中にはもう何も入っていないはずなのに虚空をすすり続けていて謎)、クライマックスの厳かなシーンでいびきをかく大きな人、飲み物をカシガシかき混ぜる人、ポップコーンをムシャムシャ食べゴジラみたいなげっぷをする人・・・たくさんの困った人と尻を隣り合わせてきた。映画を大きなスクリーン・良質な音響で、さらに不動無音で観たいというのは欲張りだろうか。

こんな殺伐とした脳を緩和してくれるのは、大きな音が鳴るシーンに合わせてポップコーンを口に運び、押しつぶすように丁寧に噛む人。映画終わりに「めっちゃよかったなー!」と元気よく言う人。素敵。

 

 

この話を映画好きの友人にしたところ、「私は平面タイプの小さな映画館に行ったとき、前に座った人のアフロヘア―で画面が半分以上隠されたまま2時間強過ごした」という強力なエピソードを落ち込む私にプレゼントしてくれたので、気が紛れて今は元気です。

尾道グルメまみれ

遅めのお昼は商店街の尾道ラーメン。

近くに二か所あって、どちらの看板を見ても決めかねる。最初に目に入ったのは新しそうな店構えで、若者が集っている感じ。次に見つけた店は昔ながらの地元のラーメン店という風貌。どっちもうまそう。味見させてくれない限り、どっちにする?と言いながら二店を往復する事しかできない。

エンドレス往復に終止符を打ってくれたのは、ふたつめのラーメン屋さん。店主に声をかけられてこちらに入ることに決めた。


おすすめ通り、尾道らーめんとチャーハンのセットを注文。
ここに来る前に立派なモーニングとケーキを食べているのでチャーハンまで腹に入るか不安だったが、めちゃくちゃおいしかったので両品とも完食。麺がなくなった後も汁を飽きずに啜り、最後のもやしの一本まで食い尽くそうという気概で椀の底を探った。

尾道らーめん!

私は何に関しても濃い味・こってりを至上としているので、食べるまでは尾道らーめんがしょうゆベースであるという点に一抹の不安を抱いていたが、実物は魚介だしにがっしりとした背脂が浮かんでいるおかげでスープに魚と脂の旨味が染み出ていて濃ゆく、堅めの細麺との相性も最高だった。

この日何度「らーめんおいしかったな~」と懐古したことか知れない。
もうしばらくこの麺を食べられないのが寂しい。



 

続いて、商店街でお土産を買う。

イカ天・のり天の大ファンである私は、大量の○○天を買い込むべく、尾道に来る前からお土産は段ボールに入れて郵送しようと画策していた。業務用いか天も買えちゃう天才的な策。

思ったよりも長く、途切れつつも続く商店街をずーっと歩いてお土産屋さんを探す。
商店街にはお土産屋よりもカフェのほうが多いくらい、お洒落なカフェが色々入っていた。全面ガラス張りで、天井が高くて広々とした気持ちのよさそうなカフェ。隠れ家的な、縦に細長いカフェ。こんなところで仕事できたらいいな~。完全リモートOKになったら尾道に移住して、一生飽きないくらいあちこちに点在するカフェを渡り歩きながらお仕事するのもいいかもしれない。かもしれない、じゃなくていいに決まっている。

商店街で一番大きなお土産屋でイカ天を買い込む。
購入品はイカ天5袋のり天2袋(ドンキでは買えない味たぶん)、即席ラーメン2袋、綺麗な色の帆布ポーチ、尾道の地酒、海藻スープの素、檸檬リーフパイ、あとは陶芸品屋で買った備前焼尾道猫とドリッパー。これらを全部箱に詰めて家に送った。

 

 

まだおなかは空いてないけど、尾道プリンがどうしても食べたかったので駅近くのプリン店に寄った。

尾道プリン

駅から商店街までの続く道にちょこんと佇むお店は、昭和の駄菓子屋さんのようなレトロな外観。
コロッケ屋さんみたいにテイクアウト販売だけなので店内の飲食スペースは無いが、店の表に小さなかカウンターテーブルとベンチがあり、そこで食べられるようになっている。
いちごブルーベリー珈琲抹茶などなど色々な味があったが、尾道らしくレモン味のシロップがついたものを選んだ。食感滑らかでこっくりとしていて、なんともおいしい。甘いもの大好き人間にはたまらない。
このプリンを食べていたら超がつくほど甘党な親戚の顔が浮かんで、絶対好きだろうな~と思ったので贈ることにした。伝票を用意している間に人がどんどん集まってきて、行列ができた。「わしゃがな」の尾道土産紹介編でも「朝から並ばないと売り切れちゃう、超人気プリン」と言われていたので、空いているタイミングで買えたのは超ラッキーだったなあ。

 

これで尾道旅はおしまい。

尾道で喫茶

朝ご飯は、駅から少し北に行ったところにある素敵なカフェで食べた。

私はスコーンを頼んだのだが、他にもゆで卵、スイカ、バナナがついてきて、とても可愛らしいプレートで来た。あんなにかわゆかったプレートの写真がまさかのブレブレで、ここに載せられないことが悔しい。が、スコーンはサクサク&しっとり&ほどよく甘くてとても美味しく、コーヒーも香りが良くて最高だったことは記憶にしっかり残っている。

店の内装はシンプルで落ち着きがありながらもお洒落で、トイレまで可愛い。お店のお姉さんも、いわずもがなお洒落。いつか窓際に本が並ぶこの素敵空間を再訪して、ひとりでゆったり読書して過ごしてみたいと思った。

 

 

腹ごしらえがすんだら、まずは昨日行けなかったところを観光する。

 

行けなかったところその1は、千光寺の麓にある艮神社。うしとらじんじゃ。

樹齢900年超えの楠を見たくて訪れた。900年超えの木の威厳は体の大きさだけじゃない。その身に別の生命も住まわせる、器の大きさよ。伸び伸び広げる腕にびっしりと草と苔が生えている。苔が乗っている木はよく見かけるが、あんなにもうもうと腕に草を生やして悠然としている木は見たことがない。あの古木の木陰に入った皆が、この偉大なお姿に感嘆を漏らしていた。

 

神社を出たら、猫の細道にある喫茶店へ。

昨日素敵なお庭を見下ろす窓際の席に一目惚れしてから、その風景が何度も頭に浮かんだ。もうこれは恋。

緑茂る庭を通り抜け、お店の中に入る。和風な外観からは想像つかないような、洋風の家具が並ぶレトロな喫茶店。床の間には梟の置物がぎっしり。窓と反対の壁にはアンティークのバーカウンターと美しいスツールがあり、そのわきに置いてあるスピーカーからジャズがうっすらと流れている。

私たちが窓際に席を取ると、その隣の席に店のおじさんが座り、筆ペンで何かを書き始めた。窓の外の景色を描いているのかな~と思いきや、なんとも素敵な手書きのテーブルクロスを用意してくださっていた。梟の絵が描いてあるそのペーパーは、お土産として持って帰ることにした。

手描きのテーブルクロスとみかんジュース

 

魅力的なメニューからなんとか選び出したみかんジュースとガトーショコラはどちらも絶品だった。

 

ガトーショコラ

 

店の中を覗いても店の外を眺めても、店の天井を仰いでもいい景色。
店内には可愛らしい声でおやつをしきりにねだりながら自由気ままに徘徊している三毛猫がいる。店の外は植物の楽園になっている。天井には梟と龍の絵が書いてあり、大変癒される。

店のおじさんがみゃあみゃあ鳴くネコちゃんを抱きかかえて窓際の席に行き、二人で自撮りをしようとするのも見ていて微笑ましかった。

 

 

私が持っているすべての感覚が喜ぶような半日だった。

尾道、千光寺参り

まだ宿のチェックインまで時間に余裕があったので、千光寺にお参りしに行くことにした。

 

ロープウェイに乗って山頂までひとっとび。
曇りとはいえ恐ろしい湿度と熱気の中、尾道のアップダウンの激しい道を既に一万歩以上は歩いた後だったので、ワゴンの中の椅子に座って茫然自失していた。ロープウェイには私たちのほかに母娘と、外国人親子が乗った。静かな室内。終着点が近づくと、崖に埋まるように鎮座する赤い神社仏閣の姿が見えた。なるほど神秘的、と思った。

 

千光寺の山頂に到着したら、まずは新しくできた展望台に上る。
展望台とはいっても、東京タワーのように目の回る階段を昇っていくのでも、スカイツリーのようにスーパースピードで天に向かうエレベーターに乗って行くわけでもなく、新体操のリボンのような形になっている緩やかなスロープの上を展望デッキに向かって歩いて行く。風が気持ちのいい散歩道だった。
この日は雨は降らなかったものの分厚い雲が空を覆っていたので、残念ながら景色には恵まれなかった。元来私は夜景や遠くから見る町の風景に感動する性質ではないので、その上曇りとなると、どこぞの大佐のような感想しか出てこない。

こういう「ザ・観光スポット」で写真を撮りたがるツレに、文句は口に出さず、表情筋の巧みな操作によって私の本意を表しながらも、ちゃんと写真を撮ってあげた。こんな薄暗い中撮っても盛れるわけがない。粗が強調されるだけだ。写真なんかにしない方がみんな幸せだったと思わされる世にもおぞましいモノが出来上がり、それを正直に告げると大層立腹された。私はそれなりに写真の腕があるので、悪く映るのならそれは完全にモデルの責である。

 

展望台のある頂点から少し下ったところにある尾道美術館は小説「夜行」にも登場するので是非とも行きたいと朝までは思っていたのだが、この暑さと体力&気力の低下により全く美術館の気分ではなくなっていた。ツレとの無言の同意により美術館はスルーして、千光寺に向かった。道中、叩くと音鳴る面白岩を見つけたのでその巨大な岩の上でへたり込み、岩をポコポコ叩いてちゃんと観光しているように見せかけながらまったり休憩した。

 

千光寺では文字の浮き出る線香を奉納し、お参りをした。

ツレがトイレに行っている間、敷地の奥にある「恋人の聖地」みたいな名前が付けられているハート塗れのスポットにそれと知らず単身乗り込み、私の後ろには逞しそうな女子大生4人組もついた状態で、そこで寛ぐカップルに水を差すというプチやらかしをしてしまった。いや、公共の(境内なので正確には公共ではないのかもしれないが)場所に「恋人の~」なんてキャッチコピーをつけて、それ以外の人間に対して排斥されているような思いを抱かせるその施策が私のやらかしの根源では…?などと、直感的に湧き出た罪悪感を他人のせいにする思考が一瞬のうちに巡った。

 

 

チェックイン時間が迫っていたので、徒歩で山を下りる。

いったん駅に戻って荷物を取り出し、駅前のお土産屋さんで焼き立て檸檬ケーキと冷たいレモネードを買って宿に向かった。
今回のお宿は、山の斜面に建つ一棟貸し切りの古民家。そこにたどり着くまでの道の傾斜度合いが尋常じゃなかったことが、今となってはいい思い出。一段の高さがお尻キラーな階段を備えるこの道程はまるでロッククライミング。数日分の荷物を持ってあの坂を上るのはしんどかった。冷房の効いた宿に入ってもしばらくは汗が引かなかった。

 

お風呂に入ってさっぱりした後、チーズのり天とビールを片手に呪術廻戦をリアタイする。良い夜。

夜中、呪術廻戦の興奮が冷めなかったのと体内時計の狂いはそう簡単に治らないのとで全然眠れなかった。時計を見たら自分が何時間無駄にしたかを知って嘆いてしまい、余計に眠れなくなるので、ひたすら目を閉じて耐えた。音楽やラジオを聴いたりしたけど眠くならない。

なぜだか徐々に恐怖が強まってくる。ここに着いたときにも風呂に入ってるときも、微塵も怖いと思わなかったのに。
壁が薄いので隣の民家の話し声が聞こえたり、どこからか女の子の笑い声が聞こえたり、足音がすぐ窓の外から聞こえてくるような気がしたり。何より気になったのは畳。寝室は8畳ほどの広さなのだが、そのうちのベランダ側の畳二枚は比較的新しく、そのほかは均一に黒ずんでいるようだ。新しく見える二枚は一部黒ずんでいるのだが、黒ずみの位置が合わない。つまり畳が一度剥がされ、向きを変えられているのだ。畳の表裏をひっくり返して綺麗な面を表に出すのはわかるが、上下を変える必要性が分からない。私が正に今寝ころがっている位置で、何かが起きたのだろうか。中途半端なホラー好きが災いして、事故物件住みます芸人の動画などで得た色々な情報が頭の中を巡る。すると目も耳も冴えてくる。

…気づいたら朝だったが、きっと4時間ほどしか眠れていない。

夏に尾道

この夏は、尾道に行ってきた。広島発上陸。

 

なぜ尾道かと言われても、特に理由はない。
強いて言えば、森見氏の怪談的小説「夜行」を再読して尾道への憧れが増したからだが、尾道はできれば秋が深まった頃に行きたかった。
夏は秋田に行きたかった、本当は。尾道行が決定したのは、色んな事情が重なった結果だった。

 

 

尾道1日目。

 

体内時計の狂いを治せないまま旅の日を迎えてしまったのであまり眠れていなかったのと、ツレと洗面台を使うタイミングが被ったので朝はちょっと不機嫌だった。
この頃は旅行が身近なものになりすぎてしまって、アドレナリンがあまり出ないのでなんでも「旅行だからね!」と穏便に済ますことができなくなってきている。私の小さな小さな器から「旅行だからって私の邪魔をしたら許さないからね!」な心持ちが漏れてしまわないように気を付けた。

 

事前に買っておいた新幹線の切符で、特にトラブルなく広島に到着。道中は森見氏の「夜行」を開き、尾道が舞台の怪談を読んで頭を冷やしておいた。

尾道に向かうローカル線から見える景色は素敵なものだった。
電車は山の斜面を走っていく。左手には遠くの方に海がうっすら見え、眼下には民家や藪が広がる。右手は草木が生い茂る急斜面だったり、山の側面に敷かれた墓地だったりした。

 

尾道に着いたら荷物を駅のロッカーに預け、まずは昼ご飯を食べに行く。
この日は白のトップスを着ていたためラーメン以外がいい。そしてローカル感のあるものを食べたい。ということで、地元の方がやっているお好み焼き屋さんに行くことにした。

大きな商店街の隣の路地にある、一枚の鉄板を囲った6席だけのお店。先客の二人と、後から来た地元民ひとりで店はあっという間にいっぱいになった。
私たちは尾道焼と豚玉を注文。尾道焼というのは、広島風お好み焼きの上にイカ天と砂肝をトッピングしたもの。なぜ海鮮と鳥、その中でもイカと砂肝というコンビがこの地域で定着したのだろう。イカ天のしょっぱさと香ばしさ、砂肝の食感で食べ応え満点のご当地グルメだった。
店主は上品な広島弁を話す親切なおばさまで、おすすめ観光スポットや食事処を教えてくれた。

私にとって広島弁はやくざのイメージが強かった。有名ゲームの影響もあるだろうが、私の場合は間違いなく大学時代の友人が私に広島弁の悪い印象を植え付けたのだ。彼は機嫌が悪いときに広島弁を使う癖があった。方言がつい出てしまうのではなく、あえて選んで使うのだ。気に入らない同期や先輩に対して「あいつはそういうところがあるけえ嫌いなんじゃ!アホが!」と切れ散らかしていた姿をよく覚えている。私はそれを眺めながら、私も広島弁でキレてみたいな~きっと気持ちいいんだろうな~と思ったりしていた。しかし今、あれを広島人の代表にしてはいけなかったと、本物の広島人たちが穏やかに談笑するのを見て反省した。

 

一日目はほぼ移動に時間を使うことになるので観光はあまりできないかなと思っていたけど、旅初日の迸る元気とテンションでメインの観光スポットは大体周れた。

尾道といえば、山の斜面に並び立つ民家、廃屋、神社仏閣。それらを縫いつなぐように、不規則に張り巡らされている坂道。
マップ上は道が示されているし、確かに道の面影はあるのだが、草木が生い茂っていて道としての機能が数年前に失われているようなところもあり、マップは現在位置以外役に立たない。だからとにかく適当に歩いてみて、見かけたお寺にお参りしたり、カフェを覗いてみたりするしかない。
のぼったりおりたりしながら山をあてもなくさ迷い歩くのは冒険のような楽しさもあったが、平日は一日数十歩しか歩かない引きこもりにとってはあまりに過酷な運動だった。とにかく前に進むこと(目的地はないのに)と、チェックインの時間に間に合う範囲で動きまわることしか頭になく、この生活しづらそうな町の不思議や景色の美しさに想いを馳せる余裕はなかった。体力って大事。

 

斜面の街をうろついていると、「猫の細道」に行き当たった。

それまでは民家や藪、学校のような施設ばかりで、地面の傾きをなくせば関東郊外の住宅街に廃屋を少々加えたような、目に馴染みのある町並みだった。しかしこの細道だけは異様な雰囲気を放っていた。ここだけ森の面影を残していて、背の高い木が道の両脇に茂っているので薄暗い。光があまり入らず、木や家がトンネルのように道を覆っていると、それだけで異世界の感じがする。この不思議な場所は、植物の旺盛な生命力と、逃げ場のない草いきれに漂う無数の虫の気配で満ちていた。ここで刺された4か所が、あれから既に5日経っているというのに腕の血管の上に赤い跡を残している。

猫の細道を進んで角を曲がると、突き当りには柵が立てられ、その向こうは紫のあじさいが咲く庭になっていた。庭の奥には背の高い木造家屋が建っている。ジブリの世界に出てきそうな風景だ。家の広い窓からは、静かにコーヒーを嗜む男女が見える。素敵。
この喫茶店で休憩したいと思ったけど、虫よけスプレー非装備では心細かったので、明日万全を期してまた伺うことにした。

 

 

いったん山を下りて麓のコンビニに行って必要物資をそろえてから、道中見かけた面白そうな道に入っていく。屋根の上に招き猫やらなんやらの置物が載せてあり、木製の家の壁には尾道にゆかりのある映画の紹介ポスターがずらっと貼ってある。
そんなお洒落な電機屋さんの脇を抜けていくと、幅が広くて白っぽい色をした美しい階段がずーっと上まで続いているのが見えた。御袖天満宮である。近々お祭りがあるらしく、参道脇はたくさんの旗で飾られていた。有名かそうじゃないか・写真映えするかどうかより、入り口が冒険心をくすぐるかどうかが、私の旅路を決める。この階段は私を招いていた。
ひいひい言いながら階段を登っていると、上からおじいさんが降りてきた。軽く挨拶すると、この場所は大林監督の「転校生」という映画で使われた場所だと教えてくれた。映画では主人公がこの階段を転げ落ちるそうなのだが、こんな一段一段が高い急斜面で一段でも足を滑らせたらもう海に飛び込むまで止まらないだろうと思われた。

てっぺんに着いたらお参りをして、手作りの木製ベンチで一休みし、また下る。

 

パプリカの映画

パプリカを観た。

 

 

大塚さんと林原さんだ、というのが第一感想。

 

映画の始まりが怖くて、小学生の頃苦手だったタイプの映像だなと思った。
人間や人形の顔の造形や目の動きなどが、理由は言葉にできないけれどなんか怖い。カメラアングルまで怖さに加担しているような気がする。

小学校に上がっても感覚的に怖いものが苦手で、「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」さえ怖くて観れなかった。「千と千尋」は豚と蛙と手脚が生えたカオナシが、「もののけ姫」はアシタカの腕の中で蠢く何かと弓矢で飛んだ首と木霊が(木霊の登場で脱落したためその先は不明)私の中の特級恐怖警報をワンワンならした。いかなる種類の血やサスペンス、そして生物の不気味な表情に耐えられないのだ。その頃のトラウマ的な表情や動きは今でも折に触れて鮮明に蘇る。

感覚的に怖いと思わせる人間の動きって不思議。私の場合、幽霊や怪物にあるような怖さよりも、人体(や人型の何か)が作り出す奇怪な表情や仕草の方がより強烈に恐怖を煽ってくる。これは小さな頃から変わらない。ホラーもサイコスリラーも観ているはずのない幼少期から苦手ということは、この恐怖は「こういう表情をする人間は恐ろしいことをするんだ」という経験値からきているのではなく、本能的なセンサーの働きによるものなのかもしれない。
本能が「コイツやべえ怖え」と認識する、その意図は何だろう?自分の身を守るのに必要な機能のはずだけど、おじいちゃん研究員の恍惚とした表情や日本人形の目がぎょろっと回ってこっちを見ることを怖いと思う=自分を脅かすものだと認識する人間の脳って不思議。

長々と恐怖について語ってしまったけど、何が言いたかったかというと、感覚的な怖さがふんだんに利用された刺激的な映画だったということ。

 

 

誰かがこの映画を「インフルに罹った時に見る夢みたい」と言っていたような記憶がある。夢みたい、というか夢の映画である。

この映画における悪夢は遥か遠い地獄のような暗さや身体的な痛みを思わせるものはない。むしろ太陽光が照っている和やかな自然や街の中で、家電や様々な装飾品(信楽焼のたぬきや招き猫、ドール)や蛙などの身近なモチーフたちが朗らかにパレードしている明るいものだ。クレイジーを詰め込んだような悪夢。これがある精神病の状態だということなのか。

私もコロナ禍真最中にはまあまあ精神を病んでいたが、こんな「楽しすぎて逆に怖い」みたいな状態じゃなく、ネガティブ一色の、もっとじわじわと毒のように暗さが侵食していって日毎に心が黒くなっていくようなものだった(落ち込むというよりはどんどん性格が悪くなっていき生きとし生けるものに中指を立てるような中二病的鬱で、今思えばコミカルなものだった)。多分私のは単なる鬱で、この映画に出てくる病は躁鬱とか薬中とかのまた別なものなのかもしれない。

 

絵の美しさは私の期待を越えてきた。期待値もとても高かったから、それを越えることは想像もしていなかった。

この映画は夢を舞台にしているので、背景がコロコロ変わる。サーカスの舞台上だと思ったら電車の中、気づけば研究室、今度は森の中。廃墟や人体の中にもカメラは入っていく。そのどれもに心ときめく美しさがある。

2006年上映開始したとのことで、もう15年以上前の作品になる。今のようになんでもデジタルで作業の簡略化ができなかった時代に、手描きでこれだけ密度が高く美しい画を作り上げたクリエイターたちに感嘆の意を表すると同時に、彼らの労働環境のことも考えざるを得なかった。今更勝手に心配することに意味はないが、たっぷりの製作期間と潤沢な制作費があったこと、または後に大活躍するきっかけになったことを願わずにはいられない。

 

 

ストーリーの考察には全く意識が及んでいなくて、裏の意味や作家のメッセージをあえて探ったりせず、画面いっぱいに広がる夢から感覚的な刺激を受けた映画鑑賞でした。